歴史問題
1000年以上も忘れられていた任那日本府、なぜ復活したのか
『日本書紀』は日本最古の正史で、天武天皇(在位:678-686年)の命によって680年ごろ編さんが始まり、720年に完成した。日本の神話時代から、天武天皇の夫人にして後継者たる持統天皇(在位:686-97年)までの歴史を記録した。日本の政府公式記録、民間伝承記録と共に外国の歴史書も利用しており、韓国関係の記録は『百済記』『百済本記』『百済新撰(せん)』に大きく依存した。
日本書紀は国家が編さんしたが、初期の部分と対外関係記録は信頼し難いという評価を受けている。これは、7世紀末ごろは「日本」という国号と「天皇」という呼称が始まった時期に当たり、「日本が周辺国から朝貢を受けた」という小中華意識が形成され、これを歴史の記述に投影して事実をねじ曲げたからだ。日本の歴史が長いことを強調するために事件の年代を120年繰り上げたという「二周甲引上説」まで唱えられている。
大和政権が任那(伽耶)を支配したという日本書紀の記述は、長年注目されてこなかった。だが1720年に書かれた『大日本史』任那伝が、日本書紀の関連記事を整理し直して収録したことにより、日本の歴史の一部として登場した。そして19世紀末から20世紀初めにかけて、日本軍の歴史学者が本格的に研究した。ところがこれらの学者による研究は、学問的というより、日本の韓国侵略を歴史的に後押ししようとする目的の方が強かった。任那日本府説は、1949年に出版された末松保和の『任那興亡史』で集大成された。
第2次世界大戦が終わった後、日本の学界は日本書紀の史料的限界を認め、任那日本府に関する新たなアプローチを試みた。その後、任那日本府については、任那のさまざまな勢力と倭が共に参加していた会議体だという主張や、527年から530年にかけて一時的に存在していた軍事機関だという主張などが登場した。結局、日本が韓半島(朝鮮半島)南部を200年間支配したという学説は崩壊し、2010年の韓日歴史共同委員会は、任那日本府説に根拠はないという結論を出した。