ソウル市は今月初め、ホテル新羅が提出していた韓屋(韓国伝統家屋)様式ホテルの建設案を許可したが、韓屋ホテルの建設予定地は、かつて朝鮮総督府が伊藤博文を祭るために建立した「博文寺」のあった場所だ。この地で1939年、安重根(アン・ジュングン)の息子、安俊生(アン・ジュンセン)は伊藤博文の息子に対し「父に代わり謝罪する」と許しを請い、この一件を機に安俊生は「変節者(信念・主義・主張を変えた裏切り者)」のレッテルを貼られることとなった。

 その後、安重根の孫娘、ファン・ウンジュ氏は、おじの安俊生について「伊藤博文を射殺した『殺人者の息子』という呪縛に苦しめられてつらい人生を送ってきた。また、あの日の謝罪は日帝(日本帝国主義)の懐柔と圧力によって強制されたものだった」と主張したが、評価は変わらなかった。どんなに執拗(しつよう)に懐柔され、残忍な脅迫を受けたとしても、安俊生があのとき折れなければ、韓国は民族的英雄の息子が親日反逆者になるという理不尽な歴史に直面することはなかったはずだ。

 今年初め、韓国のガールズグループ「TWICE」の台湾出身メンバー、ツウィがテレビ番組で台湾(中華民国)の「国旗」を振ったことが波紋を呼び、ツウィが中国に謝罪するという事態が起きた。いっそのこと歌手をやめてしまえばいいのに、なぜ謝罪したのだろうと思った。ところが台湾の人々は、ツウィを集中的に非難することはなかった。逆に動画を公開した台湾出身の歌手ファン・アンを糾弾する集会を開いた上、謝罪を強要したとしてツウィの所属事務所JYPエンターテインメントと中国のネットユーザーを一様に批判した。台湾の人々はさらに、ツウィを団結の求心点と考えた。ツウィは「謝罪事件」の後、台湾の人々の拍手喝采を浴びながら台湾に帰り、中卒検定試験を受けたが、安俊生は植民地支配からの解放後にひっそりと(中国から韓国に)帰り、病魔と闘いながら寂しい死を迎えた。

 安俊生による1939年の謝罪は、朝鮮総督府の役人が同行したと考えると「演出されたショー」だったのは明らかだ。従ってわれわれは安俊生ではなく、彼を脅迫した朝鮮総督府を糾弾すべきだったのだ。しかし、われわれは加害者の前で被害者同士が争うという道を選び、その被害者を殺そうとまでした。日帝は安俊生の謝罪を大々的に報道することで、この争いをあおった。一方、中国はそうすることはできなかった。台湾の人々の反応を見守った末、事態を早急に収拾する道を選んだ。

 最近、ソウル市教育庁(教育委員会に相当)が親日人名辞典を市内の学校に一方的に配布した。ソウル市庁の図書館に行き、3冊からなる分厚い名簿を読んでみた。4390人にも上る親日の人物のリストを子どもたちが目にすれば、民族的な侮蔑感を感じるだろう。そう考えると残酷な気がした。

 または「親日だったのは事実ではないのでは?」と深く考えるだろう。果たしてそう言うことはできるだろうか。親日人名辞典の収録対象には「毎日新報・満鮮日報など(朝鮮総督府の)国策機関紙の局長級以上と、論説部長、論説委員」が含まれている。このうち毎日新報は民族紙だったが、庚戌(こうじゅつ)国恥(日本による韓国併合)以降、一夜にして朝鮮総督府の機関紙になるという悲運を味わった。同紙の記者の多くはその後、親日の記事を書いた。

 しかし、1918年12月8日から12日まで5回にわたって同紙に掲載されたシリーズを読むと、考えが変わってくる。当時、日帝は英親王と李方子の結婚を機に「日本と朝鮮は一つ」と宣伝するよう毎日新報に指示した。記者たちはその指示に従った。しかし記者たちは「朝鮮人たちは日本の女と結婚し、順調に暮らした」と書いたにとどまらず「子どもたちも日本語しかしゃべらず、日本人として生きていく」という事実も報じた。これは親日の証拠なのか、抗日の証拠なのか。植民地支配下の朝鮮人たちはこの記事を読んで憤る一方、抗日精神を鼓舞するという本心を行間に込めた記者の意図を見抜いてほほ笑んだ。親日人名辞典にはこのような陰での奮闘が反映されていない。歴史の加害者の前でわれわれ被害者同士がかみ付き合うという悲劇は、もうおしまいにすべきだ。

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