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川崎栄子さん「北送船は朝鮮総連による最も極悪な行為」
在日朝鮮人の川崎栄子さん(73)は17歳だった1960年、日本の新潟港から北朝鮮の清津に向かう北送船に乗船した。1959年から84年まで在日韓国・朝鮮人9万3440人がこの北送船で北朝鮮に渡った。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)について詳しいキム・チャンジョンさん(79)は「朝鮮総連による最も極悪な行為は、同胞に対して北朝鮮のことを『地上の楽園』などとうその宣伝をして北朝鮮に送ったこと。それから彼らを『人質』として同胞に送金させたことだ」と指摘する。
川崎さんは「地上の楽園に行くと思っていたが、船を降りる前からそれがうそだったと分かった。清津港は寒かった。数千人が歓迎にやって来ていたが、その中に靴下をはいている人はいなかった」と語る。当時は韓国よりも北朝鮮の方が豊かな時代だった。同胞社会でも在日本大韓民国居留民団(民団、現在の在日本大韓民国民団)よりも朝鮮総連の方をより信頼していた。朝鮮総連と日本の赤十字社が協同でこの北送事業を推進した。日本メディアも左右に関係なくいずれも北送事業を好意的に報じた。朝日新聞は「帰還希望者が増加しているのは『完全就業・生活保障』が実現している北朝鮮の魅力がその理由」と報じ、また産経新聞は「1000人近い帰還者を暖かい部屋に収容する母国の経済力に(北送された人たちは)安心した」などと報じた。
北朝鮮に到着した後、川崎さんは両親に「来てはいけない」ということをどうやって伝えるか悩んだ。他の人たちは出発前、あらかじめ「鉛筆で手紙を書けば来るなという意味、ペンで書けば来いという意味」という暗号を事前に決めておいたという。川崎さんはそのようなことは考えていなかった。朝鮮総連を信じていたからだ。手紙には遠回しに書いたが、家族はその内容を何とか悟り、北朝鮮には来なかったという。
その後、数十年にわたり川崎さんのように北朝鮮に渡った同胞たちは、日本に住む家族と乱数表のような手紙のやりとりをしていた。北朝鮮から「30歳になったケイコに会いたい」という手紙がくれば、ケイコなどいない家族はその意味を考え「ケイコ=時計」と解釈し、時計を30個送るケースもあった。
川崎さんは2003年に脱北に成功した。43年にわたり北朝鮮で生活しながら「口がなければ人間らしい生活ができる」「自殺してはいけない」という二つの点を常に忘れなかった。自殺した場合、その人は体制に不満を持っていたと見なされ、残った家族には厳しい仕打ちが待っていたからだ。北朝鮮では思想犯は主に深夜2-3時に逮捕されるという。深夜にどこかの家の前にトラックが止まれば、その日からその家の家族は誰もいなくなる。毎晩自分たちが逮捕されないか恐れながら、そのまま夜が明けると「今日は大丈夫だった」と思ってほっとし、やっと眠りにつけるという。
川崎さんは「朝鮮総連と戦うこと」を目的に日本行きを選んだ。川崎さんは国連で自らの経験を語り、今も朝鮮総連に反対する講演やデモなどを続けている。