コラム
【コラム】韓国の核武装論に日本が注目する理由
韓国与党の院内代表が、韓国も核武装すべきと主張すると、野党は「共倒れの危機を招く導火線だ」として非難した。根拠のない非難だ。これまで核武装した国が敵国と共倒れになったケースはない。中国の核にインドが、インドの核にパキスタンが、それぞれ核で対応し、インド半島の紛争はそれによって落ち着いた。また、世紀末まで続くと思われていた中東戦争が第4次で終わったのは、イスラエルの核が大きな役割を果たしたからであり、これについては議論の余地がない。
軍備拡張競争は「囚人のジレンマ」といわれるゲーム理論の典型だとされる。一方が自ら軍縮の道を選べばその代償は計り知れないため、互いに損をしても競争の道を歩むしかないというわけだ。教科書はこのジレンマを解決する方法として、「信頼」と「罰則」を挙げる。現実の世界でも核をめぐるゲームはこの枠組みの中で動いてきた。北朝鮮の核に対する対応も同じだった。だが解決にはことごとく失敗した。教科書的にいえば理由は明らかだ。相手の戦略には「核」と「非核」があるが、韓国側の戦略には「非核」しかなかったからだ。韓国も核と非核という二つのカードを駆使してこそ初めてゲームが成立する。そうすれば「信頼」と「罰則」によってジレンマを解決できるようになるのだ。
韓国が核武装するのは簡単なことではない。インドのように核の既得権を認めてもらえるような大国ではないし、イスラエルのように米国を掌握したユダヤ人パワーもない。パキスタンのように「草を食べてでも核を持つ」と叫ぶ勇気もない。仮に核を持つと決心したとして、核武装が可能なわけでもない。パキスタンの核が黙認されているのは、旧ソ連によるアフガニスタン侵攻と米国で起きた9・11テロ(2001年の米同時多発テロ)により、パキスタンが米国の戦線下に入ったためだ。しかし、このような「思いがけない幸運」を期待してはならない。韓国の豊かな大地を枯れ草だらけの土地に変えてはならないのだ。そのため1970年代以降に核保有という選択に成功した3カ国は、韓国にとってモデルにはなり得ない。もちろん北朝鮮もだ。
核カードとは核武装を始めることではなく「相手が核を選べばこちらも核を選ぶことができる」という能力を相手に信じさせることだ。こうした点でモデルになり得るのが日本だ。日本は発電用という名目で、核燃料であるプルトニウムを47.8トンも保有している。これは核爆弾6000発を製造できる量だ。日本の当局者はこれまで核武装を主張したことがない。かつて「非核三原則」を主張した首相は、退陣後にノーベル平和賞を受賞した。だが日本政府は核武装の能力をずっとちらつかせてきた。「(核武装)しようと思えばできるが、やらない」というわけだ。実際に日本の能力がどれほどなのか確認されたことはない。日本の立場からすれば、確認されては困るのだ。しかし世間は総じてその言葉を信じている。原料と技術力を握っているからだ。これが核カードというものだ。
核カードはただで得られるものではない。東海(日本海)の沿岸にある福井県の海岸には、文殊菩薩(ぼさつ)の「文殊」を意味する「もんじゅ」という名の高速増殖炉がある。韓国ウォン換算ですでに11兆ウォン(約1兆円)が投入され、維持管理費だけで年間2000億ウォン(約200億円)も掛かる。設計段階を含めれば半世紀近くが過ぎたが、度重なる事故のせいでほとんど稼働できていない「幽霊原子炉」だ。それでも日本は諦めていない。「エネルギーの自立が必要不可欠」というのが表向きの理由だが、別の見方もある。「もんじゅ」を諦めれば高速増殖炉用として備蓄したプルトニウムを手放さなければならないため、この原子炉を抱えたままにしているのだ。日本はこのような原子炉の存在をアピールし、1988年の米日原子力協定でプルトニウムの導入と生産を容認してもらった。日本の核カードは米国からもらったわけだ。
日本は現在、韓国の核武装論に注目している。韓国が「草」だけ食べていては生きていけない国ということを日本もよく知っている。日本の関心は、2年後に30年の期限が切れる米日原子力協定と関係があるようだ。韓国の核武装論には、韓国と日本の「核主権の公平性」という問題がどうしても付いて回る。黙っていれば自動的に延長される特権が、韓国の核武装論によって脅かされることを日本は懸念しているのだ。逆にこれは韓国側にとって、核主権を手にする過程で活用できる部分でもある。
日本は核爆弾の被害を受けた上、原発事故も経験した。日本で核武装論はタブー視される。しかし核の持つ高度な二重性を、高度の二重的政策を通じ、戦争と平和という二つの側面から十分に活用してきた。1950年代に核政策を樹立した日本政界の重鎮は、97歳になった今まで核武装について一度も口にしたことがない。しかしこの政治家が胸に秘めた日本の国防の終着点は「核武装」だと私は確信している。そうでなければ核に対する日本の執着心がこんなにも一貫して続くことはなかったはずだ。
核主権を投げ捨てた韓国が、北朝鮮の核ゲームから得られるものは何もない。北朝鮮政権の変化も夢にすぎないだろう。核主権を持つことに成功した国には、ある共通点を見いだすことができる。それは卓越した技術でもなければ、優れた外交力でもない。核の知識を幅広く吸収し、民族主義で武装した、しぶとい愛国的政治指導者がいるという点だ。核武装論を口先だけの議論で終わらせてはならない。