記者手帳
【記者手帳】三島「憂国」盗作騒ぎと未必の故意
韓国の女性小説家・申京淑(シン・ギョンスク)氏の盗作問題にあらためて注目が集まっている。盗作が問題となった小説を出版した創作と批評社が、編集人と編集主幹名義で盗作を事実上否定し始めたからだ。
同誌の編集人でソウル大学名誉教授の白楽晴(ペク・ナクチョン)氏は27日、自らのフェイスブックを通じ「盗作疑惑が指摘された部分に、疑いの目が向けられるだけの類似性があることは確認したが、これを意図的なもの、つまり破廉恥な犯罪行為であると断定することには同意できない」と主張した。
これに先立ち編集主幹で延世大学教授の白永瑞(ペク・ヨンソ)氏も同誌秋季号の巻頭言で「問題の作品の中に、盗作疑惑を呼び起こすに十分な類似性が見られるという事実は認めるが、その類似性を意図的盗作によるものと断定することはできない」との見方を示した。
この結果、この問題はまた原点に戻ってしまった。今年6月、申氏が自らの短編小説『伝説』に日本の極右作家として知られる故・三島由紀夫氏の短編小説『憂国』の一部を盗用したとの疑惑が表面化した直後、出版元の創作と批評社が「問題とされる文章に類似性は認められるが、作品全体に占める割合は低いので盗作ではない」との立場を表明したところ、批判の高まりを受けてこの見方を1日で撤回した経緯がある。
その創作と批評社が今回、再び盗作の否定に乗り出したわけだが、その主張のポイントは要するに「『見た目』はそうかもしれないが、『意図』はなかった」ということだ。この言い分は非常に巧みで絶妙なものだ。しかし批判する側が問題としているのはそのような点ではない。「誰が見ても盗作」と見えるものを「そのような意図はなかった」という論理で批判をかわそうとしているところに問題があるのだ。
このままだとこの問題は迷宮入りしてしまうだろう。文章を読んでそれを評する人間は、それを書いた人間の心の中まで見ることはできないし、また人間は誰でも自分の思いが自分でも分からない時が多い。これは現代の科学が教えるところでもある。
この問題を最初に指摘した小説家のイ・ウンジュン氏は、問題となった申氏の『伝説』の文章と、詩人のキム・フラン氏が翻訳した三島由紀夫の『憂国』の複数の文章とを比較し、その上で「世間の常識」に判定を求めた。
その結果はどうであったか。ここで全ての名前を挙げることができないほど多くの作家が、イ・ウンジュン氏の提起した盗作疑惑に同意した。当の申氏でさえも「盗作との指摘は正しいのかもしれない」と語った。しかし申氏はその一方で「私も自分の記憶が信じられない」ともコメントしたため、とても素直に反省しているようには見えなかった。
聖書には「太陽の下に新しきものなし」という言葉がある。無限ともいえる古今東西の作品から必要な栄養を吸収し、成長してきた21世紀に生きる韓国の作家たちが、完全にオリジナルの新しい作品を作り上げることは、もしかすると不可能に近いことなのかもしれない。
ただしたとえそうだとしても「誰が見ても盗作に見えるもの」を「意図的ではなかった」という一言で片付けるのは、どう考えても厚顔無恥だ。刑法にも「未必の故意」という言葉がある。多くの知識と経験を持つ作家や創作と批評社の高名な関係者たちであれば、当然誰もが知っている言葉だろう。
記者は今年5月にある作曲家にインタビューしたが、その際、その作曲家は「無意識の盗作を警戒するため」と前置きし「大衆歌謡や音楽はあえて聞かない」と語った。このように無意識による失敗をも警戒する態度と「盗作かもしれないが意図的ではない」とはぐらかす態度。どちらが芸術家として本当にあるべき姿だろうか。