▲中里成章教授

 「この裁判(極東国際軍事裁判=東京裁判)を担当した連合国11カ国の裁判官の中で唯一人の国際法専門の判事」「法の正義を守らんとの熱烈な使命感と、高度の文明史的見識の持ち主」

 日本の戦犯を合祀(ごうし)している東京・千代田区の靖国神社にあるインド人ラダ・ビノード・パール判事の顕彰碑に刻まれた賛辞だ。極右勢力は、侵略戦争を断罪した東京裁判で戦犯の無罪を主張したパール判事のことを「平和を追求したガンジー主義者」「良心を守った国際法専門家」と褒めたたえている。パール判事をたたえる碑は日本の各地に建てられ、一部教科書にも掲載されている。

 しかし、インド近現代史の専門家で、パール判事を研究した東京大学東洋文化研究所の中里成章名誉教授は、こうした賛辞を「極右勢力が侵略戦争を正当化し、戦犯を否定するために作った『ねつ造された神話』に過ぎない」と言った。中里教授はインドでパール判事の遺族と会い、現地で資料を調べ、パール判事の実像を伝える『パル判事 インド・ナショナリズムと東京裁判』という本も出版している。

-パール判事は本当に国際法の専門家で、熱烈なガンジー主義者だったのか。

「主に税法専門の弁護士として活動し、博士号論文はインド古代法哲学に関するものだった。同判事は東京裁判で裁判官を務めながら国際法を研究し始めた。国際法関連の書籍を出したのは東京裁判後だ。パール判事は平和主義者であり、熱烈なガンジー主義者だと主張する人もいる。しかし、私が会った同判事の息子でさえ『そうではない』と言った」

-パール判事はどういう経緯で東京裁判の裁判官になったのか。

「連合国が裁判官の推薦を依頼した際、インド当局はほかの裁判官2人に要請した。しかし、健康状態など個人的な事情で断られ、3番目の候補者だったパール判事が選ばれた。ところが、資格上も問題があった。インド当局の推薦基準は高等裁判所の現職判事か退職した裁判官だった。同判事は高等裁判所の臨時判事(判事代行)を2年ほど務めただけで、裁判官として担当した裁判の90%が民事事件だった。当時のインド当局の資料でも資格論争が記録されている。一種の行政上のミスだったが、責任者たちが選任し直す時間的余裕がないという理由で確定した」

-パール判事が無罪を主張した理由は何か。

「法律的な信念もあっただろうが、基本的には白人に対抗し、アジアが団結しなければならないという日本のファシズム『大東亜共栄圏』に共感したようだ。パール判事は自身の故郷で人気が高かった(反英独立運動指導者の)チャンドラ・ボースを支持していた。チャンドラ・ボースはドイツや日本と手を組み、英国と戦いインドを独立させるべきだと主張していた。A級戦犯の東條英機はチャンドラ・ボースを支援していた。パール判事は米国や欧州の植民地支配に対しては強く批判したが、日本の植民地侵略にについては目をつぶった」

-パール判事を神話的な人物に仕立てたのは誰なのか。

「東京裁判を否定する勢力が自分たちの主張を正当化するためにパール判事を利用した。A級戦犯被疑者として収監されていた岸信介氏(のちの首相)が1966年のパール判事来日を主導し、天皇から勲章(勲一等瑞宝章)を授与されるよう手配した。当時の首相は岸氏の弟(佐藤栄作氏)だった。岸氏の孫である安倍現首相も2007年にインドでパール判事の遺族に会い、『日本人はパール判事を尊敬している』と言った」

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