韓日交流
西大門刑務所日本語ガイドたちが見た日本人
ソウル市の西大門刑務所歴史館で7年にわたって日本語ガイドを務めているク・ボンシクさん(63)は、いつも同じ質問から始める。「ここは誰が造ったものですか」
日本人観光客たちの10人中10人が「分からない」と答える。そこでクさんが「日本人がつくったものだ」と言うと、皆いぶかしそうな表情を見せる。「日本人がなぜこれを造ったのでしょうか…朝鮮の人たちを閉じ込めるためです」。感情を表に出さず、冷静なことで知られる日本人だが、クさんの説明が続くと、次第に厳かな様子になる。同僚の日本語ガイドのチョ・ソンテさん(72)、イ・ヘソプさん(60)、イ・ヒスクさん(54)、アン・ギョンシルさん(52)も、皆同じ経験をしたという。
西大門刑務所は1908年、日本によって造られ「京城監獄」と呼ばれた。文書で確認されているだけでも、165人の独立運動家がここで命を落とした。三・一独立運動(1919年)に参加し投獄された柳寛順(ユ・グァンスン)もここで短い生涯を終えた。日本の官憲による残酷な拷問の痕跡、死刑場などがそのまま保存されており、見るだけでも身の毛がよだつ場所だが、ここを訪れる日本人は毎年増加している。2010年には6万1244人、11年は6万2060人、12年は6万2315人、昨年は6万3425人、そして今年は先月末までで3万1071人がここを訪れた。外国人観光客の10人中7人を日本人が占める。韓国を訪れる日本人観光客は急激に減っているが、ここだけはむしろ増加しているというわけだ。
ここで初めて、祖先の犯した過ちを知った日本人たちが最も多く口にする言葉は「私たちの先祖が、本当にこんなことをしたのか」というものだ。アン・ギョンシルさんは「日本人は咲いている花を取るときも注意深くやるということを誇らしく思っている。(ゆえに祖先が残虐なことをしたというのが信じられない)」と話した。歴史館を一通り見て回った日本人たちはこうべを垂れた。「私たちが他人の花畑で花を折ったようなものだ」
イ・ヒスクさんは「地下の拷問室を見た日本人たちの表情は本当に忘れられない」と話した。「口数の少ない日本人たちも、地下の拷問室を見ると表情が硬くなり、涙を見せなくても悲痛な心情が伝わってくる」という。人を逆さにして縛り付け、唐辛子の入った水を鼻の穴に入れたり、爪の下を鋭利な金属で刺したりする拷問の現場が再現されている。光復節(日本の植民地支配からの解放を記念する日)を翌日に控えた14日、教え子5人と共に訪れた東京大学の船曳建夫元教授(66)も、爪の下を刺す拷問を目の当たりにして、うめき声を上げ、顔をしかめた。船曳氏は「誰が日本人にこんなことを教えたのだろうかと自問した」と語った。アン・ギョンシルさんは「地下の拷問室を見た多くの日本人は、まるで罪人のように深くこうべを垂れ、ガイドとも目を合わせられなくなる」と話した。ガイドの中で最高齢のチョ・ソンテさんは「説明を聞いた途端、ひざまずいて私の足をつかみ『許して下さい』と言った日本人の中年男性もいた」と語った。
ク・ボンシクさんは「日本で英雄とされる伊藤博文を狙撃した人が安重根(アン・ジュングン)であることに驚き、日本人の看守たちが安重根の人となりに感銘を受けたという話をすると、日本人たちの目つきが変わる」と話した。
本音をなかなか表わさない日本人たちが涙を流す場所がある。見学コースで最後に回る、柳寛順が収監された8番監房だ。イ・ヘソプさんは「柳寛順が受けた残忍な仕打ちを再現するような場所はない」と話した。だが、ガイドたちはこう続ける。「彼女は現在の高校2年生、わずか17歳の少女だったが、ここでひどい拷問を受けて死んだ。日本人たちは彼女の遺体すら引き渡そうとしなかった。通っていた梨花学堂(現・梨花女子大学)の校長がやっとの思いで遺体を引き取ったが、今では墓も残っていない」。こんな説明だけでも、日本人たちは「(祖先は)間違っていた」「申し訳ない」といって涙を流すという。ここを訪れてから数カ月後、高校生の子どもを連れて再び訪れたという日本人女性もいた。修学旅行で訪れた高校生たちも、最初は楽しそうに笑いながらおしゃべりしているものの、最後に8番監房に来るとおごそかな様子を見せるという。「君たちは今何歳だ。ここに入れられた柳寛順も、君たちと同じ年だった」という説明を受けるからだ。
西大門刑務所の日本語ガイドたちにとって、光復節は特別な意味を持つ。ガイドたちは「日本人たちに拷問の現場や監獄などの説明をするとき『日本人たちはとてもひどいことをしたが、もっとひどいのは韓国人だ』と説明する」と話した。「日本がこのようにひどい拷問をしたにもかかわらず、絶対にあきらめずに独立運動を繰り広げた先祖たちのことを思うと、光復節は特別な意味を持ってしかるべきだ」