旧西ドイツの故ウィリー・ブラント元首相が第2次大戦直後の1948-52年、ドイツ国内で米国の対敵諜報(ちょうほう)部隊(CIC)所属のスパイとして活動していたことが分かった。ドイツの週刊誌シュピーゲルが18日(現地時間)に報じた。
ブラント氏は1969年から6年間、ドイツの首相として東ドイツやポーランド、ソ連など東欧の共産主義諸国との関係正常化を目指す「東方政策」を進め、冷戦時代に欧州における政治的・軍事的緊張を緩和し、東西ドイツ統一の基盤を整えた人物だ。現在のショルツ首相が所属する社会民主党(SPD)総裁を1964年から23年間務めた。1971年には東方政策の功績が認められノーベル平和賞を受賞した。東西ドイツ統一(1990年)から2年後の1992年に死去した。
シュピーゲルは米陸軍戦史センターのトマス・ボグハルト氏を通じて入手した米国政府の機密解除文書を通じ、ブラント氏がCICのために活動していた事実を確認した。ブラント氏はCICのドイツ人スパイのリストに「O-35-VIII」という識別番号で登録・管理されており、5年余りの活動期間中、200回以上にわたり自らの車やアパート、時にはCICの拠点でCICの担当者に会い、収集した情報を提供していた。
ブラント氏は当時、社会民主党東部事務所西ベルリン支局の総括責任者を務めており、この地位を利用して東ドイツ社会民主党(SBZ)と緊密な関係を維持していた。シュピーゲルは「ベルリンの壁がまだなかった時代だったので比較的自由に東ドイツ関係者と接触でき、機密情報を収集できたようだ」と伝えた。CICはブラント氏について「複数の国の言葉が話せる有能な社会主義者、共産主義を憎悪する西側の友人」と記録していた。
ブラント氏がCICに提供した情報は東ドイツ共産党を基盤に生まれた社会主義統一党(SED)とその傘下の自由ドイツ青年団(FDJ)の動向、東ドイツの造船所・工場・鉄道など産業に関する情報、ソ連軍の電話・通信システムなどに関する軍事情報などだ。CICはその見返りに毎月250マルクあるいはこれに相当するたばこや砂糖、コーヒーなどを渡したようだ。250マルクは当時西ドイツの平均月収に相当する額だという。
シュピーゲルは「ブラント氏は当時違法行為はやらなかった」と強調した。シュピーゲルは「連合国による分割占領が終わった1955年まで西ドイツは主権がなく、ブラント氏に(スパイや反逆などの)違法な容疑は確認されていない」と伝えた。さらに「CICから受け取った金品はほとんどが社会民主党東部事務所の業務に使った」「社会民主党の幹部もある程度は知っていたが、黙認していたようだ」とも報じた。
ブラント氏はナチスが政権を握った直後の1933年にノルウェーに亡命し、現地で新聞記者として働いていた。終戦後の47年にノルウェー軍に広報将校として採用されてからドイツに戻り、48年に社会民主党に入党すると同時にドイツに定住した。ブラント氏は亡命中もドイツが占領していたノルウェーやデンマーク、中立国のスウェーデンで情報活動を行い連合軍に提供していたという。シュピーゲルは「ブラント氏は米国製ウイスキーを非常に好み、CICの担当者がたまにウイスキーを提供すると喜んで受け取った」とも伝えた。
パリ=チョン・チョルファン特派員