高麗時代、宋の風水師・胡宗旦は高麗の国運を弱めようとして、全国各地を回り石碑を壊し、釣り鐘を溶かしたという伝説がある。明の使臣・徐師昊は高麗時代の末期に「天子の機運」が起こることを防ごうと、(現在は北朝鮮にある)咸鏡南道端川に鉄杭5本を打ち込んだそうだ。朝鮮時代第22代王の正祖は「だから北側からは人材が出ない」と言った。壬辰倭乱(日本では文禄・慶長の役)の時、明の武将・李如松が全国40カ所余りの地脈を断ち切ったという話もある。日本軍の武将が「慶尚北道善山から人材が多く出ている」という話を聞き、地面に穴を開けて鉄杭を打ち込んだという話もある。古くから伝わる「風水侵略説」だが、事実なのかは知る由もない。
日本による植民地支配時代に、日本が我が民族の精気を抹殺しようと、全国の名山大川に鉄杭を打ったという説が流れた。民間団体だけでなく、政府まで出てきて、大々的な「杭抜き」に乗りだした。だが、そのほとんどは土地測量や工事用の杭であることが分かった。しかし、「風水吉地」として有名だった独立運動家・李相竜(イ・サンリョン)の慶尚北道安東にある本家・臨清閣は、日本が敷いた鉄道により真っ二つになった。
我々の先祖は、山川に流れる風水の血脈が人生の禍福興亡につながっていると考えた。栄えている家は先祖の墓や家の風水のおかげだと考え、それが断ち切られると不吉なことの前兆が起こると考えた。相手の家に恨みを抱くと墓に穴を掘ったり、杭を打ったりしたという。朝鮮時代にはこうしたことがよくあったのか、尻を棒でたたく刑・流刑・打ち首などで厳しく取り締まった。