「朝鮮学校の学生たちは絶対に降りてはならない。その船でもう一度日本へ帰るんだ」
川崎栄子さん(77)は59年前、北送船が清津港の波止場に接岸した際に船着き場で大声で叫んでいた学校の先輩をいまだに覚えている。自分よりも先に北送船に乗って北朝鮮に到着したその先輩は、船に乗ってきた朝鮮学校の学生たちに向かって北朝鮮の軍人たちが聞き取れないように日本語で「降りるな」と叫んでいた。
北送された在日韓国人の川崎さんは高校3年生だった1960年、北送船に乗って清津入りし、2000年代初めに脱北。日本に定着した。「在日韓国人帰還事業」が始まって以来、今年の12月14日で60年を迎える。11月29日に新潟港を訪れた川崎さんは、まるで悪夢のように脳裏に焼き付いて離れない過去について回想した。
川崎さんは、北送船が清津港に近づいてきたあたりから何だか状況がおかしいと感じ始めたという。清津港一帯が一面灰色で、高いビルには見えなかったためだ。歓迎するために集まった人々は、肌寒い季節であるにもかかわらず着込んでいる様子もなく、靴下を履いている人も少なかった。「地上天国」という宣伝文句とはまるで掛け離れていた。船から降りた在日韓国人たちの間からは「だまされたのではないか」というざわめき声が上がった。集団合宿所に入った川崎さんと在日韓国人たちは、初日の夕飯から食べる物がなく、しっかりと食事を取ることがままならなかった。生き地獄の始まりだった。
川崎さんはもともと自分が生まれた日本を後にして北朝鮮入りすることに消極的だった。しかし、4・19革命(4月革命、故・李承晩〈イ・スンマン〉大統領を退陣に追い込んだ民主化デモ)が勃発したことで思いが変わった。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が「韓国は李承晩体制が近く崩壊し、社会主義によって統一されるだろう。よってあらかじめ北朝鮮に渡り、これに備えよう」と扇動するのを聞いたのだ。川崎さんの父は涙を流しながら北朝鮮行きに反対したが、川崎さんの思いを変えることはできなかった。