三・一節(独立運動記念日)を迎えるにあたり、ソウル市内にある徳寿宮の石垣を白い布で覆う「100年ぶりの国葬」が5日、終わった。1919年3月3日に日本の植民地支配下で葬儀が行われた高宗(朝鮮第26代国王・大韓帝国初代皇帝)を韓国人の手であらためて悼むための行事であることがその名称から分かった。喪服をまとった徳寿宮を目にしている間は終始心がやすまらなかった。高宗が韓国国民から国葬で送られてもいいものなのか、納得できなかった。
韓国人の心の中には、大韓帝国に同情し、それを美化する情緒がある。「大韓帝国=日本帝国主義の被害者」という認識に端を発するものだ。このような同情心に歴史問題への怒りが重なれば、国を駄目にした歴史の過ちすら覆い隠され、飾られてしまう。数年前に公開された映画『ラスト・プリンセス-大韓帝国最後の皇女-』(原題『徳恵翁主』)は、生涯通じて親日を貫いた英親王(李垠〈イ・ウン〉)のことを亡命まで試みた愛国者にすり替えていた。昨年放映されたドラマ『ミスター・サンシャイン』は旧韓末の腐敗を描いていたが、「親日ドラマではないか?」という非難が相次いだ。
殴られた人間は脚を伸ばして寝て、殴った人間は縮こまって寝るのが世の道理だが、周辺国に害を及ぼした国がその事実を自慢するケースはまれだ。殴りもしたし殴られもしたなら、殴られた事実だけを強調する。その代表が日本だ。アジア諸国を侵略しておきながら、世界唯一の被爆国であることを前面に押し出して反戦・平和イメージを宣伝する。被害者としてだけ記憶してもらおうと、真実を隠すこともある。ポーランドはナチスによるユダヤ人虐殺に協力した事実が暴露されるや、「ポーランド人もホロコーストに責任がある」と主張したら処罰する法律まで作った。
加害者がこのありさまなのだから、「私は被害者だ」という主張はどれだけ潔いことだろうか。ところが、ここに落とし穴がある。道徳的優越性を前面に押し出して加害者を非難しようと、自分が負けた理由を振り返らないからだ。今、韓国はその落とし穴にはまっている。数年前から春と秋に徳寿宮の石垣道周辺で大韓帝国当時のソウルの夜景を再現する灯ろう祭りが開催されている。当時の服装をしてその時代を楽しむイベントが企画される。愚かで力もなく虐げられていた痛みを思い返すコーナーは一つもない。昨年は「日本が歪曲(わいきょく)した大韓帝国のアイデンティティーを取り戻す」として「高宗の道」も作った。王妃を失い、他国の公館に避難した恥辱の道をこのように美化してもいいのかと疑問を感じる。