「18世紀の初めまで、壬申(じんしん)倭乱(文禄・慶長の役)に関する韓中日の主要な文献は、日本に集中していました。壬申倭乱に関する日本側の記憶と議論が、まさにこのとき形成されたんです。この『戦争文献』は、日本文化に大きな影響を及ぼしました」
このところ最も忙しい少壮の人文学者といえる金時徳(キム・シドク)ソウル大学奎章閣韓国学研究院教授(41)が、新たな研究書『戦争の文献学』(開かれた本社)を出版した。「日本古典文学学術賞」を受賞して学界を驚かせた『異国征伐戦記の世界』(2010)の続編で、15-20世紀の東シナ海沿岸地域における国際戦争と文献の形成・流通を追跡した研究書だ。
本書で金教授は、壬申倭乱後に日本で最も広く読まれた韓国の歴史書が、朝鮮の『東国通鑑』だったことを明らかにした。「戦争中に『東国通鑑』の版木が日本に奪われ、江戸期日本の韓国史の教科書といえる『新刊東国通鑑』の底本になります」。朝鮮と壬申倭乱に対する日本の関心は、柳成竜(ユ・ソンリョン)の『懲ヒ録』(ヒは比の下に必)がベストセラーになり、壬申倭乱を小説化した作品が数多く流通していた点にも表れている。小説は、壬申倭乱について朝鮮を降伏させた日本の勝利であるかのようにねじ曲げ、侵略の正当性を強弁することもあった。
なぜ、そんなことが起きたのか。日本人の立場からすると「かつて、われわれは島を出て大陸に渡り、武名をとどろかせたこともあった」という政治的ファンタジーもありはしたが、より根本的な理由が存在した。「過去の戦争に関心を持っていたのは、この先起こると予想される戦争への警戒と準備、すなわち『武備』故だったとみることができます」
ならば、韓国側の文献は日本に流れていくだけだったのか。金教授は、通説とは異なり「日本の文献も朝鮮に流入し、主要な知識人に影響を与えた」と語る。18世紀末から19世紀初めになると、韓中日の総合的な情報を含む『異称日本伝』『和漢三才図会』といった日本の書籍が朝鮮に輸入され、イ・イク、ハン・チユン、李徳懋(イ・ドクム)などの学者が著書でそれらの書籍を引用したという。
金教授は「丙子胡乱(1636-37年の清の侵略)後の朝鮮王朝後期200年は、平和が続いた極めて異例な時期だったが、その時期が現代韓国人の記憶と化した」と語った。そのため、「平和が日常的な状況で、戦争は特殊な状況」と感じるようになったという。「ところが歴史全体で見るとその逆で、戦争が日常的な状況であって、平和は戦争と戦争の間の中休みだった」というのが金教授の主張。戦争と軍史を学問の非主流扱いしてはまずい理由が、ここにあるというわけだ。