ノーベル文学賞への強迫観念から逃れたい人たちは「文学は楽しめばそれでいいのに、なぜノーベル賞を期待するのか」などと言う。この種の考え方は韓国よりも英国やフランスといった文学先進国でよく語られるようだ。韓江(ハン・ガン)氏の小説『ベジタリアン(原著タイトル:菜食主義者)』を英語に訳し、韓江氏と共にマン・ブッカー賞を受賞したデボラ・スミス氏も、今年6月に来韓した際「ノーベル文学賞に対する韓国人の執着は理解できない」と述べた。彼女の言葉に同意する人も多かった。しかし記者はスミス氏がこう述べた際、英国人がこれまでノーベル文学賞を9回受賞したことを思い起こした。韓国もノーベル文学賞を9回受賞すれば、このようなことを言う人が出てくるかもしれない。
「ノーベル賞にはこだわらない」という言葉は作家たちもよく口にする。フランスのノーベル文学賞作家ル・クレジオやモディアノも「賞を取るために作品を書いたことはない」と語る。しかしフランスはノーベル文学賞を15回も受賞している。
「ノーベル文学賞に執着せず、文学そのものを楽しもう」という言葉は、ノーベル文学賞を1回でも受賞してから言っても遅くはない。「ノーベル文学賞の強迫観念」に対する指摘は、イソップ物語の「酸っぱいブドウ」を思い起こさせる。高い木になっているため手に入らないブドウについて、キツネが「どうせ酸っぱくてまずいからいいや」と考えて自分を慰めるのと同じく、何か後ろめたい。もちろん作家や読者たちが「賞よりも作品」と言うのは理解できる。しかし文学は個人が楽しむ「芸術」の側面だけではないため、国家次元ではまた異なった考え方を持つべきだろう。文学は出版、映画、アニメなどに従事する人たちが生活の基盤とするコンテンツ産業の基盤にもなる。コンテンツ産業の育成にノーベル文学賞がもたらすプラスの効果は大きく、そのためにも決してたやすく諦めるべきものではない。