記者はかつて学術担当だったころ、論文の盗作・盗用問題に大きな関心を持ち、数年にわたり実際の事例を摘発・取材して記事を書いていたが、その反応はさまざまだった。
まず事実関係を確認するため本人への電話取材を試みたときに、盗作・盗用の事実関係を認めた上でその言い訳をするか、諦めるパターンだ。「どうしても記事にしないといけないのか」と逆に問い詰められたときに、人間的には申し訳ないと感じることもあった。しかしこのようなケースはあまり多くはなかった。
2番目のパターンは「悔しい」などとした上で「自分には責任がない」と言い訳するケースだ。つまり「盗作・盗用したことは事実だが、これは一種の慣例にすぎない」というのだ。記者の経験から考えると、このパターンが最も多かったように思う。彼らは一様に「誰もがやっているのに、なぜ自分だけ追及するのか」などと記者に厳しく問い掛けてきた。
3番目のパターンは逆襲だ。「一介の新聞記者が学者の著書や論文について盗作などと指摘するのか。勝手にすればよい」「もし本当に記事を書けば、こちらも黙ってはいない。あなたの会社に自分の知人が何人いるか知っているのか」などと逆にこちらを攻撃してくるのだ。見方を変えれば彼らは盗作・盗用を自ら認めているとも考えられるため、決して悪質とはいえない側面もあった。
さらに「法的に対応する」などと言って脅迫してくる悪質な盗作・盗用者も少なくなかった。彼らは一様に「名誉毀損(きそん)で訴える」などと言ってくるが、こちらは事前に事実関係を十分に把握しているため「訴えたければ訴えればいい。こちらも虚偽告訴罪で訴える」と言い返す。3-4回はこのような経験をしたが、実際に名誉毀損で訴えられたことはない。
しかしある時期、盗作・盗用の取材はやめることを決めた。際限がないからだ。その大きなきっかけとなったのは、高級官僚など公務員になるためには必ず読んでおかねばならない法律関係の総論や概論の類だ。これらの本を見ると、どれも多数説、有力説、少数説というくくりで法解釈などについて説明されている。これはある法律の条項に対する学界の解釈だが、調べてみるとこのやり方は外国のものをそっくりそのまま受け入れたものだった。例えば韓国の民法は日本の民法を参考にしているが、この日本の民法もドイツの民法を参考に作られている。法学研究者はこれを「継受法」と呼んでいる。つまり法律体系そのものを外国からそのまま受け継いでいるということだ。
このように韓国の民法は日本の民法を基本にしているため、法解釈も韓国よりも先を進む日本のものをそのまま持ってきて使っている。そこで日本の民法関連の書籍をあらためて確認すると、多数説、有力説、少数説がどういうものか分かった。何らかの法解釈が行われた場合、その解釈を支持する日本の法律学者の実名が明記されているが、これは多い場合で10人、次に5-6人、その次は2-3人だった。韓国は日本の本を「継受」しているのだから、明記されている日本の法律学者の実名とその数がどうしても問題になる。ここで驚くべき「創造性」が発揮されていた。韓国では日本の書籍に十数人が明記されていれば多数説、5-6人なら有力説、2-3人なら少数説に生まれ変わっていたのだ。
要するに韓国の法律学者たちは法解釈についてしっかりと研究してこなかったため、最初から多数も少数もあり得ないのだ。さらに深刻な問題は、このことについて指摘すると「教科書や受験参考書まで問題視するのか」などと堂々と言い返してくることだ。大学の中は言うまでもなく、法律関係のさまざまな本を読んで官僚試験に合格し、実際に政府で働いている人間たちもこのような実情を誰もが知っていた。
このような現状の中、最近になって閣僚候補や国会議員候補たちの間で再び盗作・盗用疑惑が浮上している。もちろん彼らも盗作・盗用など大した問題ではないと考えていたはずだ。「誰も分からないだろう」から始まり「なぜ自分だけを問題にするのか」に至る盗作・盗用ストーリーのパターンは一日も早く断ち切らねばならない。それができない限り、創造や創意はいつまでもたってもはるか遠い先のことだ。